沖縄戦を自分事として受け止める
![ひめゆり平和祈念資料館の外観](https://www.smartmagazine.jp/okinawa/wp-content/uploads/2015/09/221.jpg)
沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒と先生で構成されたひめゆり学徒隊。ひめゆりという名称は一高女の校友会誌「乙姫」と女子師範の校友会誌「白百合」に由来する
ひめゆり平和祈念資料館が開館したのは1989年のこと。
設立時点から学徒隊の生存者が中心になって、
何をどのように展示するかを話し合い、形にしてきたそうです。
戦後60年を前にした2004年には、若い世代に
戦争の実態をわかりやすく伝えようと大幅な展示リニューアルを実施。
現在は6つの展示室と多目的ホールからなり、実際に体験をした元学徒の
証言や継承世代の説明、証言映像、壕やガマのジオラマ、実物資料、
展示パネルを通じて過去の出来事を知るだけでなく、
自分事として受け止めることができるように構成されています。
今と変わらない青春が確かにあった
![夢見る年ごろの女子生徒と青春時代の写真](https://www.smartmagazine.jp/okinawa/wp-content/uploads/2015/09/322.jpg)
![夢見る年ごろの女子生徒と青春時代](https://www.smartmagazine.jp/okinawa/wp-content/uploads/2015/09/422.jpg)
「ひめゆりの青春」と名付けらえた第1展示室は、体験者と
来館者の間にある70年という距離を埋めるゾーンにもなっています。
今と変わらない夢見る年ごろの女子生徒と青春時代。
当然という感じで国に命を捧げようという気持ちを抱かせた当時の教育。
「女の自分達もやっとお国の役に立てる。勝ち戦だから、1週間もすれば
帰ってこれる。病院で看護をするのだから誰も死ぬことはないだろう」
当時17歳だった館長の島袋淑子(しまぶくろ・よしこ)さんによれば、
多くの人がそういう受け止め方で学徒隊に参加できたことを喜んでいたし
何の不安も感じていなかったのだそうです。
理想と現実のギャップに戸惑う女学生
![第2展示室は「ひめゆりの戦場」](https://www.smartmagazine.jp/okinawa/wp-content/uploads/2015/09/521.jpg)
![第2展示室は「ひめゆりの戦場」](https://www.smartmagazine.jp/okinawa/wp-content/uploads/2015/09/618.jpg)
続く第2展示室は「ひめゆりの戦場」。南風原の沖縄陸軍病院壕で
目の当たりにした現実が昨日のことのように伝わってきます。
「さっきまで生きていた人が、
出血多量で死んでいくのをただ見守るしかなかった」
これが戦争だと初めてわかったという島袋さん。
兵士が死ぬ時は「天皇陛下万歳」と叫ぶものだと思っていたという
学徒隊の別の女性は次のように語っています。
「初めて看取った兵隊さんの最後の言葉は家族の名前でした。
なぜだろうと思っていましたが、その後もほとんどの兵隊さんが
ご家族の名前を口にして亡くなっていくのを見て、
これが現実なのだと知らされたんです」
![学徒隊の生存者が分担して書いたという解説文](https://www.smartmagazine.jp/okinawa/wp-content/uploads/2015/09/720.jpg)
ひめゆり学徒隊の生存者の証言文
![第3展示室の大型スクリーン](https://www.smartmagazine.jp/okinawa/wp-content/uploads/2015/09/818.jpg)
5月25日の撤退命令を受けて動けなくなっていた学友2人を残し、
南部に移動した学徒隊。6月18日の「解散命令」で
砲弾が飛び交う戦場に文字通り放り出された地獄のような日々。
「解散命令と死の彷徨」と題した第3展示室では
米軍が撮影したフィルムと生存者の証言映像を
大型スクリーンに映しだして当時の様子を伝えています。
もしあの時、この場所に生まれていたら
![第4展示室「鎮魂」](https://www.smartmagazine.jp/okinawa/wp-content/uploads/2015/09/915.jpg)
そして、資料館の中で最も存在感のある第4展示室「鎮魂」。
沖縄戦で命を落とした女学生と先生を弔うための空間です。
壁面にかけられた200余りの遺影と生存者の証言は、
一人ひとりが生きた証。
遺影に添えられたそれぞれの人柄を優しく綴った紹介文。
それを読んでから再び遺影に目を移すと、亡くなった学徒隊の皆さんが
自分達のクラスメイトのように身近な存在に思えてきます。
![第5展示室「回想」](https://www.smartmagazine.jp/okinawa/wp-content/uploads/2015/09/1017.jpg)
第5展示室「回想」で感想を書く20歳前後の女性
「いずれ語れなくなる日が来るでしょうね」
生存者自身が自分たちに代わって体験を語り継いでくれる
後継者の育成を模索し始めたのは2000年頃のこと。
今では資料館の説明員と学芸員が平和講話などを引き継ぎ始めています。
「ひめゆり平和祈念資料館は戦争の実際を知るための入り口です。
私達にできるのはきっかけになることでしかない」
年齢的には来館者に近い継承世代の職員の皆さんは、
自分達にできることを日々模索しています。
手渡されるバトンの重み
![島袋館長](https://www.smartmagazine.jp/okinawa/wp-content/uploads/2015/09/1114.jpg)
「『あなた探してたのよ。どこに行ってたの?』と問いかけると旧友は何もいわない。そして夢が醒めるの」ひめゆり平和祈念資料館ができるまで、自分だけ生き残ってしまったという罪の意識をずっと引きずってきたという島袋淑子館長
「どこまでも戦争はだめなんです」
「気付いたらいつ間にか戦争になっている。そういうものなのです」
「自分は関係ないと思っていても、
いつの間にかかかわらざるを得なくなっている。それが戦争です」
「『外国が攻めてきたらどうするの?』と質問されることがありますが、
戦争になる前にやれることがあるでしょう、それをやりましょうよ」
学徒隊の生存者が語る言葉はどれもずっしりと心を打ちます。
「同じ話でも島袋館長のように生存者が語るのと
戦争を知らない世代が語るのとでは受け止め方が違いますよね」
学芸員の前泊克美(まえどまり・かつみ)さんは渡されたバトンの重みを
ひしひしと感じているそうです。けれども、
修学旅行生として訪れた高校生が、教師になって再び訪ねてきたという
エピソードを話してくださった時の表情は、とても明るかったです。
自分の中の変化に気づく場所
![ひめゆり平和祈念資料館](https://www.smartmagazine.jp/okinawa/wp-content/uploads/2015/09/1213.jpg)
ひめゆりの塔は終戦の翌年に沖縄戦後初めて建立された魂魄之塔に続いて、2番目に建てられた慰霊の塔。同じ時期に建てられた沖縄師範健児之塔と並んで平和を希求する3つの慰霊の塔とされている
修学旅行で一度ここを訪れたことがある。
そういう方も少ないくないでしょう。
10代の時に感じたことが時ともにどう変わっているか。
結婚して子どもができて感じ方がどう変わったか。
自分の中の変化を確認するためにも、ぜひ、
もう一度足を運んでみてはいかがでしょうか。