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観光観光

2015.03.24

墓石じゃありません!?
冊封七碑

writer : いのうえちず

無料区域の中にもいろいろ見どころがある首里城。
今回は龍樋と冊封七碑をご紹介しましょう。
龍樋は瑞泉門の手前にある首里城第一の湧き水です。
龍樋
山の上なのに首里城に湧き水が豊富な理由は、
雨水がすぐに浸透する琉球石灰岩層の下に、
水を通さない粘土質の地層があり、
琉球石灰岩層と粘土層の間に地下水がたまりやすい構造のため。
1523年に北京で購入したと伝わる輝緑岩製の龍頭は、
第二次世界大戦でも鼻の一部が破損したのみで(修復済み)、
ほぼオリジナル。地上にあるものは
ほとんどが復元レプリカの首里城で、これは貴重な存在です。
石壁

王家の水、そのお味は?

かつて、この龍樋の水を使えるのは王族だけでした。
例外は中国から来る冊封使。約500年続いた琉球国ですが、
国王は明や清の皇帝の承認を受けて正式に即位するという
冊封体制下にありました。
皇帝の使者である冊封使は、第一級の国賓。
国をあげて「おもてなし」を行いました。
その一つが、那覇市西町にあった天使館(冊封使の宿舎)まで
生活用水として龍樋の水を毎日運ぶこと。
歴代の冊封使がその水を称えた書を石碑に刻んだのが、
龍樋の周囲にある冊封七碑です。
石碑と空
当時は外交の一環として、求められた時には
言葉や漢詩を書いて贈る習慣がありました。
本当においしい水だと思ったのか、それとも社交辞令なのか、
真実は七人の冊封使のみ知るといったところ。

冊封七碑って、こんな内容

現在ある七碑は拓本を元に1992年に復元されたもの。
内容は次の通りです。
ちゅうざんだいいち
中山第一(ちゅうざんだいいち)/水量、水質ともに琉球第一の泉である
書いた人:徐葆光(じょほこう)/
尚敬(しょうけい)王の冊封副使(1719年)
かつて北山・中山・南山の三つの勢力圏があった沖縄本島。
戦いの末に島を統一したのは中山王でした。
三山ともそれぞれ明と冊封関係にあって交易をしていた経緯から、
明・清とも琉球国王を中山王と呼んでいました。
うんこんせきずい
雲根石髄(うんこんせきずい)/
山の高いところの穴から湧き出る石の乳である
書いた人:全魁(ぜんかい)/
尚穆(しょうぼく)王の冊封正使(1756年)
ようこくれいげん
暘谷霊源(ようこくれいげん)/
東のはての日の出るところにある不可思議な泉である
書いた人:趙文楷(ちょうぶんかい)/
尚温(しょうおん)王の冊封正使(1800年)
趙文楷の書「育徳泉」は世界遺産・識名園(王家の別邸)で
も石碑に刻まれています。
かつはつはつち
活潑潑地(かつはつはつち)/
魚がはねるように水の勢いが極めて活発な泉である
書いた人:斉鯤(せいこん)/
尚灝(しょうこう)王の冊封正使1808年)
げんえんりゅうちょう
源遠流長(げんえんりゅうちょう)/泉は源が遠く流水が長い
書いた人:林鴻年(りんこうねん)/
尚育(しょういく)王の冊封正使(1838年)
林鴻年の書「甘醴延齢(かんれいえんれい)」の石碑は、
趙文楷の石碑と共に、識名園の湧き水の両脇を飾っています。
ひせんそうぎょ
飛泉漱玉(ひせんそうぎょく)/
清らかな泉があたかも玉のように飛び散っている
書いた人:高人鑑(こうじんかん)/
尚育王の冊封副使(1838年)
れいみゃくりゅうふん
霊脈流芬(れいみゃくりゅうふん)/
霊妙の水脈から出る薫り高い流れである
書いた人:趙新(ちょうしん)/
最後の琉球国王・尚泰(しょうたい)王の冊封正使(1866年)
首里城の石壁と石碑
1879年のいわゆる琉球処分後は
日本陸軍が首里城に駐屯していましたが、
1909年に首里城は首里区(後の首里市)に払い下げられ、
城内には首里第一尋常小学校などが置かれます。
龍樋の水は学校でも使われました。
第二次世界大戦後、首里城跡には1950年に琉球大学が開学。
龍樋の場所にはポンプが設置され、
学生たちの生活用水として活用されました。
歴史の荒波を経て蘇った「王家の水」。
そこにはさまざまなドラマが秘められているのです。

いのうえちず

沖縄に惹かれて2011年移住。沖縄の文化誌『モモト』副編集長。歴史・文化系の記事が得意。​

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